7月のお題、「流れ星」より、小噺。
ジャンル違い、要注意。
以下、楊太小噺です。
ある日、師叔が流れ星を拾ってきた。
全く。何でもすぐに連れてきちゃ駄目って、いつも言っているのに。
「だって目の前に流れてきたのだ」
仕方なかろう、それにこんなに綺麗なのだぞ…唇を尖らせ、そう主張される。
ひとまず流れ星は、竹細工の小さな虫籠に入れた。
夜、窓辺に置くと、流れ星は綺麗な光を放つ。
それを、家中の電気を消して、二人肩を並べて眺めた。
流れ星の光は一つ。
眺める僕らは二人。
小さな虫籠の中、ぽつりと輝く光はひとりぼっち。
瞬く仄かなそれは、まるで誰かを呼んでいる声の様だ。
「誰かを探しているみたいだのう」
どうやら師叔も、同じことを感じたらしい。
突然無性に切なくなり、確かめるように、そっと隣の手を握った。
翌日の夕暮れ、虫籠を持って二人で散歩に出掛けた。
流れ星を拾った場所で、虫籠の扉を開けたのは師叔だ。
瞬きながら、流れ星はひらりと何処かへ流れていってしまった。
「ひとりぼっちでは寂しいからな」
空を見上げて師叔は呟くと、そっと僕の手を握ってくれた。
その帰り道、僕らは空に沢山の流れ星を目撃した。
無数に流れる光の線は、夏の夜空にとても綺麗だった。
ファンタジーでも良し、蛍でも良し。
中国には竹細工の虫籠売りさんがいると、聞いたような。
深く考えずに書き始めたら、変な方向に行ってしまいました…あれ?
あまり楊太さんで書く意味は無かったな。
さき 2009年07月18日(土)00時06分 編集・削除
2002年時ですが、中秋の名月の時期になると、竹細工の虫籠にこおろぎや鈴虫をいれた虫売りさんが市場によく出ていましたよ。
あとは竹細工のすごく美しい鳥かごに入った鳥さんとか。こういうところの情緒はまだ残っていて嬉しかったのをよく覚えています。
ともあれ、今回のお話。
私は、とても寂しい物語だと感じました。
cottonさまがサイトに掲載されているお話から今まで私が受け取ってきたのは、可愛らしさや愛らしさ、または鋭さ、慄然感だったのですが、寂しさを感じたのは今回が初めてで、とても新鮮な気持ちです。
『流れ星の光は一つ。
眺める僕らは二人。
小さな虫籠の中、ぽつりと輝く光はひとりぼっち。』
素朴な言葉が胸を打ちます。
夏の情景の美しさ、切なさ、流れ星に仮託した儚さが決して押しつけがましくなく配置されており、物語全体に流れる空気をかろく、柔らかくしているように思いました。
とてもとてもとても、好きなお話です。
ここからはひっじょーーーーーーに些末なところをつっつくようでご気分を害されたら本当に申し訳ないのですが(涙)一カ所、ちょこっとだけ、ん??と思った箇所があったので、愚見を申し上げます。
全体がとても幻想的で柔らかな空気をまとっているお話の中で、最後から2行目、「目撃した」という語がやや、物語の雰囲気に少しそぐわない気が致しました。現代の日本語だと事件性を帯びた物事に関して「目撃」を使用することが多いので、たくさんの流れ星に対して「目撃」とするのは、何か…衝撃的…???という感じを受けてしまいました。
何かお考えがあってこの語を選択されていたとしたら国語力の無い己を恥じるばかりです。ほんとうにおこがましくて申し訳ありませんー!!(T□T)
情緒的で切なく、美しい物語でした。
彼らの帰路に優しい光が灯っているようにと、願わずにはいられません。
いつもいつも素敵なお話を本当にありがとうございます!
この間お会いしたばかりだというのに、もうすでに早くもcottonさまと創作談義したくてたまらなくなっております(笑)いっそ移住か合宿したい…!!<大迷惑